忘れ得ぬ人(その7)

1970年12月1日の早朝、電話口に呼び出された私は主人から

「お父さんが亡くなった。航空券の手配をしてあるから明日の朝の飛行機で帰ってきなさい。お葬式にはなんとか間に合う筈だから・・」と告げられました。

 

ショックで頭の中は真っ白になり、涙も出ませんでした。

 

放心状態からやや立ち直った時点で、私の心の片隅に父の突然の死は大きな悲しみでも現在のバレエ留学を全て断念して帰国することへの迷いが・・無かった・・と言えば嘘になるかも知れません。

 

仁美さんは複雑な気持ちでいる私に

「佐知子さん、人には運命いうもんがあってな、誰でも思いどうりにはいかへんのよ。お父さんが亡くなりはって、お母さんも加藤さん(主人)も佐知子さんの帰りを待ってはるんやから、まずは帰るべきやと思う。ウチは来年には日本に里帰りするつもりやから、また会えるえ」と帰国への背中を押してくれたことで私の迷いは消えました。

 

仁美さんに「運命や・・・」と言われて、ハタと思い返せば、リアンヌ・ダイデのグループ公演「コッペリア」には参加せず、ベジャールの「第9シンフォニー」の方を選んだことも運命に突き動かされたように思われるのでした。

何故ならもし「コッペリア」の方を選んでいたならこの時期は60回公演で各国を回っている最中で契約違反にもなることから途中帰国は出来なかったからです。

 

もし、父の死に際しての帰国を断念していたなら、おそらく留学期間も長引くこととなりその後の私のバレエ人生は今とは全く違うものになっていたでしょう。

仁美さんからの私への数度にわたるアドヴァイスはその時は何気なくても、後の私の運命におおきく関わることだったと解ったのは何年も後になってからでした。

 

帰国後、私が牧阿佐美先生のオープンクラスに参加して半年後の1971年5月14日に病床の橘秋子先生がご逝去なされました。

牧先生から<橘秋子追悼公演>へのゲスト出演のお誘いをお受けしたことがきっかけとなり、牧阿佐美バレエ団への正式入団を決意して現在にいたるのです。

 

見ず知らずだった私に真の友情をもって助けてくださり、私の運命、人生に大きく関わっ

て導いて下さった忘れ得ぬ人、浅川仁美さん。

 

心からの感謝の意をもって、ご冥福をお祈りします。