忘れ得ぬ人(その6)

私がパリに留学していた1970年頃のヨーロッパでは、オペラ座はノエラ・ポントワ シリル・アタナゾフ、ロイヤルバレエ団ではマーゴット・フォンティーン ルドルフ・ヌリエフ達が人気を得て活躍していました。

 

そのような状況においても、ベジャールのジョルジュ・ドン、パオロ・ボルトルッツィ、女性ではタニヤ・バリ 浅川仁美さん達は不動の人気を得ていたのです。

 

パリのプロマイドや写真を扱っている店には様々な国の人気バレエダンサーの写真とともに当時カップルを組むことの多かったジョルジュ・ドンと仁美さんの斬新な写真が飾られており、それらを目にする度に私は彼女と同じ日本人であることを誇りに思ったものでした。

 

(その5)の続きです。

8月末に私はパリを離れ、「第九シンフォニー」に出演すべく当時の<二十世紀バレエ団>の所在地であるブリュッセルに赴きました。

 

約一か月のリハーサルを経て<パレ・デ・スポー>(体育館のようなもの)での7日間の公演全てにソリストとして出演することが出来た上、この場では語り尽くせない程の様々な経験と知識を得る幸せに恵まれたのです。

 

公演終了後は再びパリに戻り、仁美さんとの有意義なバレエ漬けの日々が始まりました。

 

11月も半ばを過ぎた頃、私が尊敬している先生の1人であるミシェル・レズニコフ先生にカナダ国籍の女子と私の二人が呼ばれ

「テレビの仕事があります。私の振付ですが引き受けますか?」と問われました。

当然、私もカナダの女性も大喜びで「ハイ!」と即座に承諾し、仁美さんにも知らせると「良かったやないの!テレビの仕事はギャラも高いし、ついてはるねー」

と喜んで下さり、私も振付に入る日を楽しみにしていたのですが・・・

 

1970年11月25日 パリは三島由紀夫氏(作家)の割腹自殺の話題で持ちきりとなりました。

人々は同じ日本人である私に「ミシマ、ハラキリ!!!」とお腹を真一文字に切るジェスチャーを交え、驚きを隠せないようでした。

 

その事件をきっかけに私は、何か得体の知れない不吉さを感じて気持ちまでが落ち込んでいた矢先の11月30日、今度は私の父が急逝したのです。

死因は心筋梗塞によるもので、享年67歳でした。

 

(その7)へ続く